● 極北の流氷とアイヌトーテムの旅 ●
1. 一段飛ばしのおさがり2. 打ち砕けドリフトアイス3. 湯の力4. 氷上の大鷲は
5. 北風の吹くナラワラの半島で いつもの聞き慣れたアラーム音は、外の 「 ドゥイーン 」 というよく分からない音と混ざりながら私の鼓膜を振るわせた。目覚めは良くて、スヌーズ機能に頼ることなく一発で起き上がる。先程からかすかに聞こえる異音が何なのか、結露で濡れた窓を擦って外を覗き込むと、まだまだ夜が明けきらない目の前の道路を、街灯を頼りに 1 台の除雪車が、昨日の夕方から晩まで降り続いていたフカフカの雪を道路脇に退けているのが見えた。
『 こんな暗いうちから除雪してくれるんだな 』 観光地ということもあって、こういった作業が早々に行なわれる有難さが非常に身に染みる。
昨夜は温泉ですっかり身体の芯から温まり、ビールでさらに体内を追い炊きして、加えて暖房完備の部屋で分厚い布団に入っていたので、本当によく眠れた。いつも遠征では車中泊ばかりだから、宿だとしっかり疲れがとれることを改めて実感する。

ソフトカツゲン
昨夜つまみにしていた鮭とばが数片残っていたので、それをおかずにおにぎりを口に放り込み、北海道のご当地乳酸菌飲料であるソフトカツゲンで流し込む朝食。沖縄のゲンキクールとかマリーブもそうだけど、遠征先のご当地乳酸菌飲料ってついつい気になって買ってしまう。味は想像通り、期待を裏切らないあの味。
朝食もぱぱっと済ませ、これから乗るクルーズ船に備えて準備してきた防寒着をインナーからキチッと着込んでいく。この宿では連泊せず、今夜は別の宿にお世話になる予定なので、温泉で硫黄臭くなった手ぬぐいやら昨夜飲み散らかしたゴミなどもまとめてチェックアウトだ。
バタンバタンと二重扉の玄関口を開いて外に出ると、雪や風は止んでいるものの北海道の早朝はシンと冷えている。急いで荷物を詰め込もうと車に駆け寄ると、その周りと道路までの通路がきっちりと雪かきされて整地されていることに気がついた。チェックアウト時刻を伝えていたために、あらかじめ従業員の方が除雪してくれていたんだろう、なんとありがたいことか。
車にエンジンをかけ、船の集合場所まで向かう道中、 『 そういえばもし従業員の方がやってくれていなかったら、自分で雪かきをしてから出発するわけで、それを勘定に入れてなかったから、これ下手したら出航時刻に間に合わなかったかもな、アッブネー。 』 なんて思ったり。こういうのは遠征の計画段階ではまったく想定していなかったから、結果オーライだったけれど自分の見立ての甘さを反省する。
脳内での早朝反省会が終わる頃には、無事集合時間に港へと到着することができた。港にはすでに多くの車が駐車しており、それらのほとんどが流氷クルーズの客らしかったので、車を停めるスペースを見つけるのに苦労した記憶がある。手短に準備を済ませたら酔い止めを 2 錠、口に放り込んで、昨夜温泉で出会った船長のいるクルーズ船に向かう。
受付で料金を支払い、簡単な説明を受けると、乗船するよう促された。例の船長のオヤジはいるかなぁと探していると、船に乗り込む足場のところで、船員たちと談笑している彼の姿が見えた。
『 これはひとまず挨拶しとかなきゃな。 』 とドキドキしながらそちらへ向かっていったのだが、謎の緊張感で、まるで小学校低学年の女の子が、好きな男の子に緊張しながら話しかけるように、 「 あ、あ、どうもおはようございます、昨日は、あの、露天風呂でどうも。 」 みたいなまごまごした言い方になってしまった。すると船長はドンと構えていながらも、朝だからなのか、あの夜のような親しみやすさは薄れていて、 「 おぉ、来たか。 そうだな、奥の船の方に乗りな。 」 と 2 隻あるうちの一方を勧めて私の方をポンと叩き、乗船を促した。
個人的には感動の再会だったので、もうちょっとテンションの上がるやり取りを想像していただけに、なんだかちょっぴり肩すかし。せっかく夜に裸の付き合いをして距離が近づいたと思っていたのに、翌朝早々にタバコ吸って部屋を出て行く男性を、まだシーツの上で横になったまま寂しげに見送る女性みたいな感覚だ。
まぁ、さっきから女目線での感情表現をしてますけどね、まったくわからんですよ、女心ってもんは。
クルーズ船は、空が白み始めた頃合いに出航となった。例年では港近くまで流氷が押し寄せるようなのだが、この年は暖冬ということもあってか着岸数もほとんどなく、国後島を右に見ながらしばらく沖に出る。船内にはストーブなどの暖房器具が備え付けられているので、移動中の待機時間は快適なまま船は進んで行く。
しばらくして流氷帯に差し掛かると次第に船の速度が落ち始め、それと時を同じくして、船員が動き出した。船の後方デッキに何箱か積まれていたカゴから、30 , 40 cm ほどの細長いものを、まるでトマホークの投擲のようにブンブンと流氷上に投げ入れていく。
すると、まず “ それ ” に向かってカモメやカラスの仲間が集まり出し、ギャーギャーとチンピラのように喚いて奪い合いが始まる。船員の手元をよく見てみると、 “ それ ” は半分凍ったようなカチカチの魚だった。
つまりこれは撒き餌だ。
カモメやカラスがぎゃあぎゃあ騒ぎ立ていると、次第に本命の海ワシたちが現れる。

オオワシ
Haliaeetus pelagicus
オジロワシ
H. albicilla これは近い。こんなにもカッコいいワシに大接近できて興奮している自分と、あくまで餌付けによる観察であるため、実力で見つけたわけでもなく、こんなことで良いのだろうかと自問自答する自分もいた。
まさかクルーズ船での観察がこんな形だとは。内心、複雑な感情がぐるぐるぐるぐると混ざりあっていた。けれど、今となってはこれが彼らにとっての日常なのだろう。加えて、やはりすぐ鼻先にいる大型ワシの挙動は、見る者を釘づけにする迫力あった。

オオワシ

オジロワシ

オオワシ
餌付けについては賛否両論ある。ここで、世界自然遺産に指定されているこの知床半島で、なぜ反自然 ・ 反野生的とも言えるような餌付けが行われているかについて、私が調べた事柄を書いていく。
観光船事業者によるオオワシ ・ オジロワシへの餌付けについては、 【 平成 25 年度 知床国立公園における海域利用適正化に向けた調査業務報告書 】 で、環境省釧路自然環境事務所および公益財団法人知床財団によって報告されている。それによると、餌付けは保護増殖という観点からは不要のものであり、鳥インフルエンザなど感染症への罹患リスクが増大すると指摘されるため、世界自然遺産の適正利用の観点からも、餌付けは原則としてゼロにすべきとしている。
しかしながら、餌付けを止めてしまうと観光客の足が遠のき、羅臼地域における観光への影響が大きいこと、また、たとえすぐに餌付けゼロにしても隣接する別の餌付け場所に移動するだけで、越冬個体群への影響は軽微であると考えられることから、即時撤廃ではなく、段階的な行動計画を整備して、将来的に餌付けを無くすという方向性でまとまっている。
ある種、餌付けの一部容認ともとれる内容であり、現在では通称 【 羅臼ルール 】 という、環境省と観光船事業者との間で合意されたルールのもと、観光事業者による餌付けは継続されている。
ルールの中身としては、
・ 羅臼で捕れた魚だけを使い、感染症拡大防止のために内蔵は与えない
・ 与えた魚の魚種と量を記録し、環境省へ報告する
というものだ。
環境省の 【 オジロワシ ・ オオワシ保護増殖事業 】 に関する資料については、環境省の HP 上では平成 27 年度の検討会以降の内容は更新されておらず、現状ではまだ世界自然遺産地域内での観光事業者による餌付けが継続されているのが現状だ。

オジロワシ

オオワシ
以上のように、環境省としても即餌付け禁止という措置をとっていないからといって、 『 だからやっても良いんだ 』 と傲慢になるわけではないし、反対に餌付けを批判することで自分だけ正義ヅラしようなんて気もさらさらない。
ただ自分がそれに加担してしまったことに後悔する部分もあったが、大半は至近距離での海ワシ観察を楽しんでいたことも、また事実である。
だから、今回の経験を糧にして、様々な角度・尺度・知識を持って、それぞれの側面で何がベストかを自問自答することが大切なんだと思う。
・ 【 自然 】 原理主義的な自然観、本来の自然について ( 無干渉 ・ 人工物の排斥 )
・ 【 保全 】 地球規模の生態系保全や、全人類が向かうべき方向 ( SDGs ・ IUCN のレッドリスト )
・ 【 科学 】 科学的知見の蓄積による自然科学の事実 ( 実験 ・ 論文 )
・ 【 政治 】 政治的な判断、政権 ( 内閣 ・ 選挙 )
・ 【 経済 】 経済活動の進退やそこに暮らす人々の生活 ( 観光 ・ 飲食 )
・ 【 国際 】 国際的な立ち位置や世界情勢 ( 条約 ・ 紛争 )
・ 【 社会 】 社会的な法律、条令などのルール ( 種の保存法 ・自然公園法 )
・ 【 文化 】 文化圏での風習や生命倫理観 ( 歴史 ・ 伝統 )
・ 【 感情 】 生き物屋としての自分ルールや自身の興味 ( 人格 ・ 内面 )
各側面で、それぞれの立場において、個々人の価値観があって、それらの考え方を否定するのは難しく浅ましくさえ思えるわけで、もっと多面的に物事を捉えて、それぞれの比重を見極め、 1 つの答えを紡ぎ出さなければならない。
今回でいえば、海ワシへの餌付けは 【 自然 】 ・ 【 保全 】 ・ 【 科学 】 の側面ではやめるべきと考えるが、 【 経済 】 ・ 【 感情 】 の側面では餌付けによって得られるサービスを享受していたともいえる。本当に海ワシのため、という項目を最重要課題とするならば、餌付けはやめるべきだろうから、あとはそれをどうやって共有 ・ 納得するかなのだろう。
もちろん全部をパーフェクトにみんなが納得なんてできない。 「 誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ 」 なんて歌もあるわけだし、泣く子が出るのは仕方が無いので、あとはその子のアフターフォローをどのように行なうかだ。

オオワシ
少し脱線気味な内容にはなるが、そういう意味では “ 捕鯨問題 ” も同じように色々な見方を考えさせられる命題の一つであるので、海ワシの話に戻るようにしながらクジラに寄り道しようと思う。
単純に捕る ・ 捕らないの話でも、 「 クジラを捕らないで 」 という人の意見もわかるし、 「 クジラを捕りたい 」 という人の意見もわかる。それぞれの人にそう思わせる背景が、上の各側面での考え方があるはずだから、どちらも間違っているとは言い切れない。
ただし政治的な事実として、我々は国際捕鯨委員会 ( IWC ) から 2019 年に脱退し、排他的経済水域内で国際捕鯨取締条約によって管理されている鯨類の商業捕鯨再開を行う日本国民であるという事は揺るがないし間違いない。どんなに高尚な自然観 ・ 愛護精神があろうとも、我々が民主主義に則って選択した国民としての方向性である。自分はそんなの認めないと思っていても、海外の人からしたらパーソナルな部分よりも、 “ 日本人 ” という記号的な捉え方をされてしまうのが圧倒的に多いはず。
IWC 脱退と商業捕鯨の再開を政治的に判断した日本人である以上、今一度、捕鯨問題について自分自身に落とし込む必要があるなと、脱退以降により感じるようになった。考えを巡らせる中で、いかに折り合いをつけて納得できるかが大事なんだろうな。特に生き物に関わる趣味をしている上では。
これまでの経緯を自分なりに整理してみた。
まず、 [ 鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展 ] を目的として、 1948 年に IWC が発足。その 3 年後の 1951 年、日本も IWC に加入し、クジラ資源の維持管理に努めながら各国と連携をして商業捕鯨を行なっていた。しかし捕鯨管理には鯨油の生産調整を目的とする 【 シロナガスクジラ換算 】 という単位を用いた、捕獲総数が捕獲枠に達したらその年の捕鯨は打ち止めとなるオリンピック方式を採用していたのだが、効率の良いシロナガスクジラ
Balaenoptera musculus やナガスクジラ
B. physalus をはじめとする大型のクジラを、各国が早い者勝ちで競い合うような捕り方をしていたことにより、特に大型鯨類の著しい減少へと繋がってしまった。
失敗を悟ったIWCでは国毎に捕獲量を設ける 【 国別割当 】 へと捕鯨管理を変更したが、 1972 年の国連人間環境会議 ( 通称 : ストックホルム環境会議 ) にて 「 すべてのクジラは危機に瀕している 」 という演説がされたことや、その後、自然保護が声高に叫ばれるようになり、いくつもの捕獲規制や操業規制などを経て、ついに 1982 年に商業捕鯨の一時停止決議 ( 商業捕鯨モラトリアム ) が IWC で採択された。
1990 年までに商業捕鯨の一時停止によるクジラ資源への影響を評価し、捕獲枠の設定を改めて検討するはずだったのだが、商業捕鯨の再開に向け、日本は南氷洋や北西太平洋での調査捕鯨を通じて、クロミンククジラ
B. bonaerensis やミンククジラ
B. acutorostrata の資源量増加を解明していったものの、 IWC 総会で捕鯨の新ルールである 【 改訂管理制度 ( RMS ) 】 の完成を先延ばしにされ続けたために商業捕鯨の再開は未だ認められず、現在もまだモラトリアムは継続中である。
また調査捕鯨以外にも、 1988 ~ 2002 年までの 15 回にわたりミンククジラ 50 頭を暫定救済枠として日本は要求したが、それすら IWC に認められることはなかった。
そのため現状、 IWC 加盟国で合法的に認められている捕鯨は、下記の5つである。
① 調査捕鯨
② 先住民生存捕鯨 ( マカ族やイヌイットによる捕鯨 )
③ 商業捕鯨モラトリアム等に関して異議を申し立てた上での商業捕鯨
④ 国際捕鯨取締条約の規制対象になっていない小型鯨類の捕鯨 【 沿岸小型捕鯨 】
⑤ 定置網で混獲されたり、座礁した場合 ( これらは捕鯨という表現にはならないが一応 )
日本はモラトリアムに対し、一時は異議申し立てをしたが、アメリカから 「 撤回しなければアラスカ沖でのスケトウダラ漁をやめさせる 」 と圧力をかけられ、日本政府としては商業捕鯨よりもアメリカや諸外国との関係性を選択した。そのため異議申し立てを撤回している状況であるため、現行のモラトリアムが有効であり、 1988 年から日本の商業捕鯨は停止されたままだった。
調査捕鯨においても、 1987 年から南氷洋および北西太平洋でクロミンククジラやミンククジラを中心に、クジラ資源の把握に努めていたものの、 2014 年に国際司法裁判所は、日本の南氷洋での第二期南極海鯨類捕獲調査 ( JARPAII ) の捕獲許可発給が、国際捕鯨取締条約に規定する [ 科学的研究を目的とする ] ものではないとの結論を下した。つまり事実上の商業捕鯨にあたり、調査捕鯨とは認められないとする判決を下され、日本は受け入れた。
そして一昨年の 2019 年、ついに日本は IWC を脱退することとなる。 IWC 非加盟国であれば、公海での捕鯨はできないものの、排他的経済水域内で自国の判断によって捕ることができるということだ。 ( 例えばインドネシアなどの国々が行なう捕鯨がそれにあたる。 )
ただ、量を捕る日本の捕鯨とインドネシアなどの伝統捕鯨を同列に語ることはできず、今回の IWC 脱退と商業捕鯨の再開というその判断は、私個人の考え方とは一致しなかった。
じゃあ、お前の意見はどうなんだってこともあるだろうから、以下に私の考えを述べる。
商業捕鯨を再開するのであれば、 IWC には加入したまま、科学的根拠に基づいて商業捕鯨モラトリアムの異議申し立てをし、 IWC で合意された改訂管理方式 ( RMP ) を用いて安全係数を算出した捕獲枠の中で、商業捕鯨を行なうべきだと考える。ノルウェーやアイスランドがそうするのと同じように。
なぜなら IWC は本来、 [ 鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展 ] を目的とした国際機関であり、クジラは分布域が広大で、単一国の判断のみで [ 捕る / 捕らない ] の決定をすべきではないと思うので、国際的な資源管理と知識の共有化が必要だと考えるからだ。
また、アメリカからの圧力に負けて異議申し立てを撤回してしまったら、せっかく調査捕鯨で得られた [ クジラ資源の回復 ] という科学的な根拠を自ら否定していることにもなりかねない。政治的圧力は政治の問題であり、圧力そのものを問題解決すべきであって、それはつまりクジラの問題ではないので、毅然とした態度で論理的に対応したい。
今回は説明上、 【 捕鯨 】 とか 【 クジラ 】 と書いているが、種によっては絶滅に瀕していたり、反対に数が増えていたり、生息範囲が広かったりと、種によって実情は様々である。一括りにクジラと表現してしまうと、その言葉だけが踊っていて、どの分類階級を指しているか不明瞭になるため、誤解が生まれやすくなってしまうのも事実だ。
日本が主張しているのは、これまでの調査捕鯨によって得られたデータから、数が増えているとされる南氷洋でのクロミンククジラの捕鯨だったので、 IWC 加盟国が科学的に判断出来るよう、議論を続けていかなければならない。科学的に増えている根拠があるならば、資源管理の面では私も捕って良いと思っているので、あとはその科学的な部分を納得させるだけ。
( 事実、科学的根拠もあり、南氷洋のクロミンククジラの年間増殖率と推定される生息頭数から RMP で安全な捕獲枠を算出すると、年間 2,000 頭を捕ることが可能とされており、それぞれの数字的な根拠は IWC でも承認されている事実である。 )
一方で、分類学が進み、各海域のクジラが細分化されるようであれば、種における生息数は理論上減ることとなり、また生物多様性保全の観点からも、各海域特有の遺伝的多様性を守るため、捕鯨に関してはより慎重にならざるを得ない気もしている。細分化されればされるほど、生物多様性保全の観点からは捕鯨が難しくなるかもしれないので、ここら辺の問題はウナギやマグロなども同じように抱えている課題であろう。こういう所でも基礎科学である分類学の重要性を、そしてそれに乗っ取った議論の重要性を感じるので、世の中的にはもっと分類学に脚光が当たってほしいなと。
トライ & エラーこそ科学だし、日進月歩で事実の蓄積がなされるので、定説だって覆ることもあるのだから、商業捕鯨が再開されても調査 ・ 議論は必要なもので、常に資源管理では継続的なモニタリングも必要なはず。
そして科学は、政治とは切り離したところで、揺るがない存在として真実の追究に中立的であるべきで、その科学的な裏付けのもとに、政治的判断をしてほしいと切に願う。
もちろんこれまで幾度となく、科学的に物事を進めようとしてきたと思うのだが、政治的な配慮や国際的な軋轢を鑑みて、モラトリアムに対して異議申し立てができない部分もあるのだろうし、 NGO や反捕鯨団体の働きかけによって、 IWC 自体がコントロールの利かない状態に陥る場合もあるが、それならば商業捕鯨を諦めるべきではないかとも考える。
資源管理という観点から IWC のような国際機関は必要で、その管理の中で 【 商業捕鯨の再開 】 と 【 商業捕鯨モラトリアムの異議申し立て 】 はセットにすることが必須だと考えているので、脱退することで国際的な資源管理をせず、独自に商業捕鯨を始めることに私は疑問を感じている。
ノルウェーやアイスランドなどは IWC に加盟しながらもモラトリアムに異議申し立てをして、その上で 【 北大西洋海産哺乳動物委員会 ( NAMMCO ) 】 を結成し資源管理に努めて商業捕鯨をしているので、せめて日本も北西太平洋での資源管理を近隣の国々と連携して行ったほうが、今後の諸外国との関係性を考えても有用なはず。
最終的に自分の意見をまとめると、私の姿勢としては、政治的な介入のない科学的な調査による事実 ・ 根拠の解明を行なった上で、各種文化を尊重した基本ルールおよび特例措置の制定をし、国際的な協調路線の中で捕鯨を行なうことがベストだと思っている。もちろんこれが綺麗事で現実味はないのかもしれないけれど、それを最終目標としていきたいので、すべての事象はこの目標に準ずるかどうかで判断をしたい。

左 : ニタリクジラ
B. edeni の赤肉刺身 ( 北西太平洋産 ) (※ 1)
右 : ナガスクジラ
B. physalus のベーコン ( アイスランド産 ) (※ 2)
(※ 1 再開された日本の商業捕鯨のもので、水産庁が定める捕獲枠内で捕鯨される )
(※ 2 ナガスクジラについては、ワシントン条約附属書Ⅰに掲げられているため国際取引が原則できないが、日本はいくつかの種に対し留保を付するため、輸入することが可能 )
あと、捕鯨に反対する人の中には政治的な思惑で反対しているのではなく、純粋に 『 野生動物として守りたい ・ 殺されるのが可哀想 』 という文化 ・ 感情が理由で捕鯨に反対している人がいることも忘れてはいけない。 [ 反捕鯨国ではクジラを神格化し ・ 知的動物であると信じている ] ことに対して、しばしば日本で批判的な意見も散見するが、それも立派な文化 ・ 時代の思想であるので、食べたいという文化を守りたいがために、その神格化している文化を踏みにじることもあってはならないのではないだろうか。
文化の歴史や重みも大切かとは思うが、同じようにして、歴史が浅く新しい文化だったとしても、それが多くの人に根付いているものであれば、歴史ある文化より劣っていると私は思わないし、場合によっては今のほうが大事なこともある。時間の経過や科学技術の発展により、世界情勢で政治が変わり、世論が変わり、文化や生活が変容していくわけだから。
またそれらの変容により、ホエールウォッチングという文化が日本にもできていることも理解しておく必要がある。国内でもそれを目的とした観光業者や楽しみにしている観光客もいて、そんな彼らにとっては商業捕鯨を手放しで喜べない側面があるかもしれない。
古来からある捕鯨という文化も、その歴史の中で時間経過と共に価値観や科学的知見も変容していく。携帯端末の普及によって、個々人での連絡が容易になったことにより、年賀状の文化が衰退しているように、クジラの食文化も時代に合わせて変容してしまうのは当たり前だとも思っている。
ただ一つ言えることは、そうして食べる文化を守るということで商業捕鯨を再開した以上、需要や消費の落ち込みで供給過多に陥り、食べ切れずに遺棄されるクジラを生み出しては絶対にいけない。国際世論で反対意見もある中で、世界的な資源管理としての組織である IWC を脱退し、協調路線ではなく我が道を行くことにしたのだから、好き勝手に無駄殺しは許されない。
ただただ商業捕鯨を再開するだけでなく、食利用の裾野拡大も含め、この数十年間で後退してしまったクジラ食文化の復興を、今の若い人やこれから日本を担っていく人々に、どう訴求するのか、きちんと考えていかなくてはいけないはず。それも含めての商業捕鯨再開だ。
日本沿岸での商業捕鯨開始にあたっては、クジラ ( 特にヒゲクジラ亜目 ) は季節回遊の生き物で、分布域としては広大な種もおり、我々が捕るのは日本沿岸だけだとしても、 『 自分たちは守りたいのに、日本の海域に入ったら取り尽くされてしまうかもしれない 』 と日本以外の国では不安に思うかもしれない。
逆の立場になって考えてみるならば、仮にロシアの食文化にオオワシ・オジロワシ食が昔からあったとして、生息数が減少する中、海ワシをロシアの人々が食文化だとして消費を続けることで、激減してしまうかもしれない。ロシア国内での狩猟については、ロシアの中での問題なので日本として口を挟むことができないが、それによってこれまで冬に渡ってきていた海ワシが日本に渡って来なくなってしまうかもしれない。
そうなった時、そうなりそうな時、あなたは何を思い、どんな感情になるだろうか。
それを想像してみると、ロシアと共有していると言える渡り鳥の海ワシたちに、我々の判断だけでリスクのある餌付けをして良いのだろうか、その影響がロシア側に出てしまわないだろうか、と考えてしまう。
クジラについても海ワシについても、関係する相手方の事を十分に熟考した上で、付き合い方を決めていかなくちゃならない。

オオワシとオジロワシ
( ようやくこれで海ワシに話は戻るが、) だから羅臼地域で行なわれている餌付けでさえ、安直に容認することも憚れると思うようになっているので、考えれば考えるほど、今回のクルーズ参加は後悔の念に苛まれる。
餌付けに加担したことは事実として私の歴史には刻まれる。その事実を未来の私はどう捉えるだろうか。
羅臼ルールの計画のもと、その未来では餌付けがゼロになっているかもしれない。
違うやり方での観光産業が生まれているかもしれない。
新手のウィルスの登場により、海ワシが絶滅しているかもしれない。
その時の状況や得られた知識などで感じ方は違うのだろうけれど、後悔した部分を少しでも改善できるよう、知識は常にアップデートし、自分の考えに背かないようにして生き物と関わり合っていくようにしたいな。

オジロワシ
あと後悔ばっかりではなく、ネットや図鑑を眺めているだけでは分からない、生で見るその偉大さや迫力を体感したプラスの部分があるのだから、それらはきちんと自分の中に吸収して、何かの形にしてアウトプットできるような人間にならなくてはな。
ブログを書くことで、自分の考えを整理することができて、 [ 自分が大切に思っていること ] ・ [ 今後どういう行動をすべきか ] が、ぼんやりしたものから徐々に輪郭が明確になっていくわけだが、クルーズ船に乗っている最中はそこまで頭の中を片付けられていなかったから、楽しんだ反面モヤモヤが残ったまま、帰港することとなった。
クルーズ船の事業者はルールに乗っ取って運行しているので、悪い事をしているわけではないのだが、自分の心にわだかまりを持ったままだったので、面白い出会い方をした船長さんに対して素直に挨拶できない自分がいて、 「 今日はありがとうございました、楽しかったです。 」 と定型文のような感想を吐き出しただけで、船を降りることになってしまった。
あぁ、なんか未熟者ですいません。
気持ちを切り替える意味でも、下船後はお昼時だったので道の駅にある食堂で豪華にメシでも食って元気を出すことにした。せっかく北海道に来たのだし、海鮮の美味しい港近くのお店ということもあって、ここはひとつ、奮発してお高いものを注文することにした。

ウニ丼
エゾバフンウニを豪快に丼の全面に敷き詰めた、私のこれまでの人生で注文したことのない額の超豪華ウニ丼だ。これにわさび醤油を上から垂らしてがっつけば、味わったことのない旨味が口中に広がる。さすがは北海道、鮮度が段違いじゃねえか。
実はもともと私はそこまでウニが好きではなかったのだが、一昨年の東北遠征の時にジークさんのお宅でごちそうになった三陸産のウニが爆裂に美味しくて、自分の中のウニの価値観が 180 度ひっくり返ったのをきっかけに、ウニの評価が急上昇したのだった。これまで食べてきたウニは鮮度や解凍の問題なのか、形が崩れて溶けたようになっていたので、ただのオレンジ色のドロドロした海産物という印象だったのだが、その時にいただいたウニは身がしっかりしていて食感もあり、そして何よりその濃厚なウニとしての旨味が最高だった。はっきり言って、これまで食べていたウニはウニではなく、ようやく初めて本物のウニを食べたんだという感覚で、まるで別の食べ物のように感じた。当たり前だけど、本当に美味しいウニは美味しいんだ。
そんな経験もあってウニの美味しさはその土地で鮮度の良い物を味わうのが一番だと思ったので、せっかくの北海道遠征だから奮発してウニ丼を注文したのは大当たりだったな。沖合にぼんやりと浮かぶ流氷と国後島が眺められる窓側の席で、この極上のウニ丼を食べられる幸せは、何にも代え難い経験だった。
やっぱり食べる文化 ・ 食を通じて得られる感動は、他の物では代替の利かないモノなんだろうなぁ。
さて、腹も舌も満足したことだし、気持ちを切り替えて午後のフィールディングに向かうとしよう。

オオワシ
■ 参考文献 ■
【 クジラを捕って、考えた 川端裕人著 】
【 クジラと日本人 小松正之著 】
【 なぜクジラは座礁するのか? 「 反捕鯨 」 の悲劇 森下丈二著 】